ジグソーパズルのように組み込む

mosa-mosa2009-08-23

つい最近まで通っていたカビの某研究所に、東京農大から学生さんが卒業研究のために来ていた。その学生さんに「仕事って面白いですか?」と聞かれたので「面白いよ」と答えた。するとその学生さんは「いいなぁ。そんな風に言えるようになりたい」と言っていた。学生も多くの人がやりたい仕事に就けるとは限らないことを知っているのだろう。とはいえ、その学生さん、何か仕事に漠然とした憧れのようなものを抱いているようだった。「天職」とかそういうものに。
僕は天職とかに憧れているうちは「本当の天職」には出会えないのではないかと思う。天職は見つけるものではなく、天職にするものではないだろうか。


ちょっと前に社長が研究所に来たとき、「企業人の研究では、自分のやりたい研究と会社がやってほしい研究の間にくるものをテーマにすべき」と話していたことが印象的だった。
例えばの話、僕はゲゲゲの鬼太郎にでてくる「ぬりかべ」が好きなので、ぬりかべについて研究したいです、と言っても会社は認めてくれないだろう。結局、会社として利益が期待できるような研究に上手いこと自分のやりたい研究を上乗せさせる必要がある。


この上乗せをするためには、考える力が相当必要となる。ジグソーパズルを組み立てていくように、自分のやりたい研究のピースをストーリーの中に組み込んでいく。与えられた仕事しかできない人間にはこのピースを当てはめていくことができない。
仕事をテキパキこなす能力がある人はけっこうたくさんいるが、仕事を創り出すことのできる人は少ない。学生時代は成績優秀だった人でも、会社に入るとパッとしない人が多いのはこのためであると思う。


必要な能力は、まず自ら課題を設定できること。次にそれを解決していく能力である。
農大の学生さんに「今、何をやっておくべきですか」と尋ねられたので、僕はできるだけ考える力を養っておくべきと答えた。

考える力とは、
1. 論理的に考える力
2. 他人に説明できる力
3. 努力し続ける力

この3つが揃って初めて考える力が養われると思う。関係性を示すと図のようになる。


論理的に考えることができれば他人に説明することができるが、逆は必ずしも成り立たない。
また他人に説明できる力がある人はいずれもそのための努力をしてきた人である。論理的に考える力、他人に説明できる力は、努力し続ける力に対する十分条件だ。もしかしたら人によっては異論があるかもしれないが、僕の中ではこの命題は真だ。


論理的に考える力とは、大体次の3つに分類できる。


演繹法とは、A=B、B=CすなわちA=Cである、といういわゆる三段論法のことだ。
次に帰納法とは、「ネコAはネズミを追いかける。ネコBもネズミを追いかける。ネコCもネズミを追いかける。ネコDも…。すなわちネコはネズミを追いかける」という論法のことだ。
最後に「空雨傘」とは、「空を見上げたら、雨が降ってきそうだったので、傘を持っていくことにした」という、状況→仮説→行動の論理展開を言う。


論理の厳密な順に並べると、演繹法帰納法<空雨傘となる。


注意しなければいけないのが、状況→仮説→行動の論理展開は相手に併せて説明しないと、場合によっては「論理の飛躍」が生じてしまうことだ。相手に合わせるとは、前提条件に合わせるということ。論理的に考えることができて初めて相手に合わせて説明できるようになる。


しかし、最も必要なのは努力し続ける力である。論理的に考えて、相手に説明する。言うは易し、行うに難し。実務の中で行っていくには、何度も何度も練習しなければならない。僕はEメールを書くとき、レポートを書くとき、上司に提案するとき、いつでも演繹法帰納法・空雨傘を意識して説明するようにしている。論理的に考える力は磨いて身に付ける力だからだ。使えば使うほどに研ぎ澄まされてくる。


まだまだではあるが、以前に比べれば自分の考えをずっと理路整然と説明できるようになった。まさに提案力が身に付いてきたと言える。先月の外部研修から帰ってきてから、あるプロジェクトを立ち上げた。目的を説明し、方法と期待できる効果を上司に説明したところ、上司の反応は素早かった。その日のうちに、関係部署に連絡して、翌日にはもう協力を依頼する発信文書を出した。これにより、全社的にカビの調査をすることになった。僕はカビの研究がやりたいし、会社側はカビの実態調査ができる。これはまさに社長が言っていた企業の研究にほかならない。


今年の秋にはこれまでやってきた成果を学会発表することになっている。僕と同じポジションにいて、学会発表した人は過去十年以上誰もいない。誰もが忙しくてできないと言ってきたことを、「どうすればできるか」とずっと自分に問い続けてきた。僕は考える力こそ生き抜くために必要な力だと思っている。この力が身に付いてきたから、学会発表にまでこぎつけたと言える。


会社から離れて外部の研究所に行ってから、自分が所属している環境がいかに恵まれているかということに気が付いた。外ではもっと少ない設備・予算でも頑張って結果を出しているところがある。恵まれた環境にいるのに、結果が出せないということは自分がヘボであることを間接的に証明しているのと同じことだ。恵まれたポジションにいる人は結果をきちんと出す義務がある。
ヒドイのは、そういうポジションにいるということに気付かず、文句ばっかり言っている連中である。僕は外から客観的に自分を見つめられる機会を得ることができて幸運だった。


微生物って前から面白いと思ってたけど、最近本当に面白くてネコまっしぐらって感じだ。
仕事はできればできるようになるほど面白くなる。僕はもう自分では止められないほど四六時中仕事のことを考えている。しかし、それでは体と精神が持たないので、意図的に気分転換する術も身に付けた。そういう風にしてさらにもっと微生物を勉強したいと思っている。

数学者の言葉では

藤原正彦氏のエッセイ「数学者の言葉では」の中に、学問に挫折する大学院生の話がある。著者の教え子で、競争の激しいアメリカの大学院にも係わらず奨学生として学ぶほどの優秀な学生が、だんだんと精神的に不安定になっていく様子が描かれていた。


学問を志そうとする人には、人間らしい情緒を捨て、人生の全てを学問に捧げる一時期が必要であると著者は言っている。

しかし、学問を修めようと本気で考えた人ならば、自分の才能への不安、また自分の研究が果たして世の中のためになるのかという疑問には、誰もが身に覚えがあると思う。それは一流の科学者であっても例外ではない。

著者自身もその教え子のように精神的に不安定になった時期があったようだ。しかし、それを乗り越えてはじめて「不安を上手くかわしながら付き合っていく」術を身に付けられるという。


著者は学問に生きるには、「楽観的」でなければ ならないという。しかしここでいう楽観的とはただのおバカさんのことではない。ある時期の人生の全てを学問に捧げ、ぎりぎりの果てに行きついた「楽観的」のことである。これほど重い楽観的を僕はこれまで知らない。

ある数学者はどんなに難しい問題に出会っても、まず「これは簡単だ」とつぶやいてみるそうだ。はじめから難しいと思ってしまうと、本当は簡単に解ける問題であっても、心が解こうとする気持ちを放棄してしまうらしい。


心に渦巻く不安を上手にかわす技術。とても参考になった。
この本を読んで少しアメリカの大学院に挑戦してみたい気持ちが生まれた。

カビはどんぶり

今日で1ヶ月に渡ったカビ研修が一応終了した。


カビは僕が扱う微生物の中では断トツで難しいのだが、カビの難しいところを一つ上げるとすれば、それは学名上は同じ菌種であっても、色が全然違う場合が多々あることだ。カラーバリエーションがありすぎる。


これがカビ素人にとって高いハードルとなる。同じ微生物でも、細菌なら同じ菌種でこんなにバリエーションがあるなんてアリエナイ。つまりその菌特有の色・形を一つ憶えてしまえば大体それで事足りるわけだ。

ということを先生に言ってみたら、


「カビはどんぶり勘定だよ。大体同じならそれでよし!
カビは細かいこと気にする人には向いていないんだ。大体ウチのやつは細かいこと気にし過ぎで… 」
と、奥さんが目の前で働いているにも関わらず始まり、すると奥さんが
「そうなの、アタシ向いてないの。ホホホ」

面白いコンビだなぁ。ちなみに奥さんもカビの超スペシャリスト。


ちなみに僕は限りなくA型に近いO型だと自負している。つまり向いていない。先生にそう言ってみたら、


「そりゃダメだ。気にしなくてよし!ハッハー」て感じだった。


そんな風にしてカビ研修は終了した。来週からは会社に復帰する予定。
会社に戻ってからは、カビの伝道師として教えを伝え広めるミッションが待っている。

カビ研修講師

今月末に社内研修があって、カビ検査について話すことになっている。


研修メニューは僕がいない間に決まってしまった。


最近、研修メニューが毎度同じような内容で飽きてきたという不満が聞こえ、そこで渡りに船、今ちょうど僕がカビ研修で学んでいる内容を、そのまま社内研修に適用してしまおうという恐ろしい試みである。


どういう構成にしようと悩んでいて気付いた。僕は自分で理解していないことは喋れないということに。さぁ、大変な事態になってまいりました。


毎度、研修で講師をする直前に猛勉強して、澄ました顔で話している。そういう微妙なタフさが身についた。
今回も同じようにして乗り切るつもり。

女子大にて

今日は某女子大にて、先生がカビ検査の実習の講師をやるので、アシスタントとして参加した。


女子大に足を踏み入れるのは初めて。ワクテカして望んだのだが、実習生はふつうに社会人が対象で、場所がただ女子大というだけだった。


特に胸踊るシチュエーションもなく普通にお手伝いして帰ってきた。

オレのボスの話

昨日は新大阪で、学会発表について先生と打ち合わせした。
その後、飲み屋で先生と、オレのボスと、共同研究している他社の人と4人で飲んだ。

そのとき出たオレのボスの話。

ボスは根っからの研究者で、オレは勝手に師匠と崇めている。
ボスは微生物が専門ではなく、もともと化学屋だった。ある化合物の代謝について動物実験していたときの話だ。

動物実験とはとても難しい。どんな動物でも、固体差があるし、気性も違うので、なるべく人との接触を少なくして、個体間の標準化を図る。そのため一般的に実験動物にはなるべく接触しないように心がける。可愛がるなんぞはもってのほか。

しかし、ボスは違った。自分が扱う実験動物は徹底的に可愛がった。周りの人は皆反対したが、ボスはやり方を変えなかった。
ボスには一つの確信があったからだ。怯えている動物、ストレスを受けている動物や体調の悪い動物などを使うとデータがばらついた。だが可愛がってなつかせて、不安を無くしてあげるととてもキレイなデータが取れることに気付いたらしい。

そのために全部自分で世話をする。エサを自分で与える、床も自分で替える。皆が下請け業者に任せているところを全て自分が行った。

そうしていると、自分が世話している動物の性格が全部解るようになってくる。他の人が近づくと荒れるヤツでも、ボスが世話すると大人しくしている。
しかし大切に手間をかけて可愛がった動物も最後には殺さなければならない。ボスの実験は、ある代謝物の脳内含有量変化を調べるものだった。

殺すときはギロチンにしてから解剖する。薬剤を注射すると、どうしても悲鳴をあげるので他の動物たちに恐怖が伝わってしまうのだそう。そうして不安定な状態になると、データがばらついてしまう。

「オレはたしかに動物を騙していたのかもしれない。」安心してなついているところをギロチンする。愛情かけて育てた動物を殺すことに葛藤があったらしい。
「悩んだこともあったけど、やっぱり実験のために殺したよ。その代わり、得られたデータは最後は全て論文にした。」

学会発表だとデータが足りなくても、ストーリーが出来れば発表できてしまうものだ。でも、論文は違う。論理だけでなく、データにも抜け漏れがあってはならない。論文にするということはそれだけ厳密さが求められるということ。

やったからには最後は論文にまで必ずもっていく。それがボスの動物実験をやるスタンス。

それを聞いていた獣医学博士の先生が、そんな話は初めて聞いたと言った。その先生は食中毒菌が専門であり、獣医学でも家畜衛生の観点から、実験動物を使って病原菌を研究することはよくある。でも、そこでは実験動物は完全にモノとして扱われるらしい。情が移るから可愛がってはいけないと教えられたそうだ。

「動物を可愛がるのは獣医師の基本だ。でも実験動物をそんな風に可愛がる人はいない。本来は獣医師が考えなければならないことを、獣医師以外の人から言われたことに驚いている」と先生は言った。


この話は研究というものに、どう対するべきなのか、とても深い示唆を与えてくれた。

・データを出すということ
・動物を殺すということ
・自分で全てやるということ
・自分のやり方を信じるということ
・結果を形に残すこと

どれもがオレには大事な話だと思えた。

京都へ出張

出張で京都に行ってきます。今、東京駅を出ました。

今日はこれから大阪で某先生と打ち合わせ。明日は京都で学会セミナー。で、その日のうちに埼玉に戻る予定。

明日の午前中だけ少し時間があるから、東寺に行って立体マンダラを観てこようかな。